幕末・明治維新の志士&偉人たちの名言を、時代の流れに沿って集めてみました。
この時代は、日本の歴史の中でも特にファンが多いことで知られています。なぜ、こんなにも人気があるのか?それはドラマがあるからです。
幕末・明治維新の志士、そして偉人たちの生き様を、本人たちの名言に沿って解説してみました。また、その名言にリンクを付けてあるので、クリックして読むことで一人ひとりの生き方と名言の意味がより深く理解できます。
幕末の志士達の名言

ペリーの黒船来航
1842年、隣国の清がイギリスとのアヘン戦争以降、半植民地化されました。まだ日本が鎖国をしていた時代です。特に香港は完全に植民地化され、イギリスの統治下におかれました。
そして、1853年、アメリカのペリー提督率いる東インド艦隊の艦船4隻がとうとう日本にもやってきました。その姿形から、日本人はそれらを黒船と呼びました。黒船の目的は日本の開国です。
これに対し、一部の日本人が、自国が清と同じ運命になるのではと危機感をつのらせました。そこから時代が動き始めます。彼らは、日本を生まれ変わらせるために、命をかけて立ち上がりました。
長州藩の吉田松陰は、尊王攘夷思想を展開しました。尊皇攘夷とは、天皇を尊び、欧米を排除しようとする考えのことです。
松蔭は松下村塾を開き、多くの優秀な塾生を育てたことでも有名です。その中の数名は、後に明治維新で大活躍することになります。そんな吉田松陰の名言がこちらです。
◯吉田松陰の名言
”どんな人間でも一つや二つはすばらしい能力を持っているものである”

また、天才吉田松陰が教えを請うほどの大天才が江戸にいました。彼の名は佐久間象山。自分で写真機を組み立てることが出来るほど、蘭学にも精通していました。
この象山のもとにも、多くの維新功績者が訪ねています。象山は、こんな名言を残しました。発明者らしい名言です。
◯佐久間象山の名言
”失敗するから成功がある”

幕末では、長州藩が大きな権力を握っていました。その中でも特に大きな役割を果たしたのが、久坂玄瑞です。久坂は師である吉田松陰の意志を受け継ぎ、尊皇攘夷の実現に向けて自分の命を燃やしました。
なぜゆえ、そこまで行動出来たのか?その理由が、この名言から読み取れます。
◯久坂玄瑞の名言
”吾が性軟弱、胸狭く膽小、深く看みるに為すあるに足らざる者…”

久坂と同時期に長州藩を引っ張っていったのが、高杉晋作です。高杉は自分の目で、中国上海の植民地化を見てきています。だからこそ、大きな危機感を持って事にあたりました。
破天荒な性格で、そんな高杉が死ぬ一年前に言った名言がこちらです。とても高杉らしい句です。
◯高杉晋作の名言
”おもしろき こともなき世を おもしろく”

時代は討幕に傾き、薩長同盟が結ばれました。その同盟に高杉と一緒に長州藩の代表として活躍したのが、木戸孝允です。
木戸はたいへん頭脳明晰な男で、明治維新後も新政府の要人としてさまざまな政策を実行しています。この名言は、木戸の頭の良さを表していると思います。
◯木戸孝允の名言
”才子は才を恃み愚は愚を守る”

幕末の維新と言うと、やはりこの男を抜いて語れません。坂本龍馬です。竜馬がいたからこそ薩長同盟は成立しました。
犬猿の仲であった薩摩藩と長州藩の仲介に入り、そのために尽力を注ぎました。日本は国内で仲違いをしてる場合ではない。お互いが潰しあえば、それは欧米の思う壺であると説いたわけです。
そんな坂本龍馬の行動力の裏には、このような名言が見え隠れしていました。
◯坂本龍馬の名言
”世の人は我を何とも言わば言え、我がなすことは我のみぞ知る”

また、討幕・明治維新はこの男の存在も無視できません。坂本龍馬の師である勝海舟です。勝海舟の指示のもと、薩長同盟が進められたわけです。
さらに竜馬亡き後、勝海舟は薩摩藩の西郷隆盛と談判し、江戸城の無血開城を成し遂げました。勝は常に革新的な考えを持ち、それは言葉にも表れています。
◯勝海舟の名言
”世の中に、無神経ほど強いものはない”

この章の最後に、薩摩藩の島津斉彬を紹介しておきます。他の英雄が下級武士出身が多いのに対し、斉彬は藩主という地位にいた人物です。
実は、薩摩を富国強兵にしたのは、この島津斉彬の力がひじょうに大きいのです。また、斉彬は西郷隆盛と大久保利通をも見出しています。
最終的には、幕府にも影響力を持つようになり、公武合体を提唱しました。斉彬から学べるところは、かなり多いはずです。
◯島津斉彬の名言
”君主は愛憎で人を判断してはならない”

薩摩藩からもう一人、西郷隆盛を紹介しておきます。西郷隆盛は、薩摩藩のリーダーとして幕末に活躍した偉人です。西郷こそ、まさしく戦うために生まれてきた男です。
西郷がいたからこそ、薩摩藩は強大な力を持つことが出来ました。西郷が私利私欲に走ることは、新政府ができても無かったと言います。それを表す名言がこちらです。
◯西郷隆盛の名言
”児孫のために美田を買わず”

明治維新後の偉人達の名言
では、この章から明治維新後に活躍した志士たちを紹介します。
大政奉還が終わり、幕府体制に終わりが告げられると、今度は新しい日本に作り変えていかねばなりません。欧米の脅威はまだ終わってないんです。
もちろん、これから紹介する偉人たちは、幕末にも活躍しています。しかし本領は、明治新政府の中で発揮しているんです。日本の近代化に大きく貢献してくれました。
日本が富国強兵に走り、欧米に対抗する力をつけたのには大久保利通の力が大きいです。大久保は西郷と旧知の仲で、西郷が戦争の神なら、大久保は国家の基礎とも言える中央集権体制を確立させました。
大久保利通がどんな思いで日本を変えようとしていたのかは、この名言から伺えます。
◯大久保利通の名言
”目的を達成する為には人間対人間のうじうじした関係に沈みこんでいたら物事は進まない。そういうものを振り切って、前に進む。”

伊藤博文は長州藩出身ながら、薩摩藩出身の大久保利通に可愛がられました。大久保亡き後、その意志を継ぎ、日本を引っ張っていきました。
千円札のモデルとしても有名ですが、日本初の総理大臣はこの伊藤博文なんです。伊藤の大久保から受け継いだ精神は、こちらの名言からわかります。
◯伊藤博文の名言
”大いに屈する人を恐れよ、いかに剛にみゆるとも、言動に余裕と味のない人は大事をなすにたらぬ”

土佐藩にも戦いの神がいました。それが板垣退助です。板垣は戊辰戦争でも活躍しましたが、本当の意味で日本人に知られるのは、明治新政府が出来てからです。
新政府が薩長出身者だけで固められるのを嫌がった板垣は、自由民権運動を起こしました。板垣の名言を聞くと、いかに自由にすべてを賭けていたかを知ることが出来ます。
◯板垣退助の名言
“板垣死すとも自由は死せず“

この章の最後に、福沢諭吉を紹介しておきます。福沢諭吉は、直接明治維新に関係していたわけではありません。しかし、同時期を生きた偉人として一緒に載せる価値がある人物だと思うのです。
勝海舟とともにアメリカまで渡航してるし、日本の近代化に一役買っています。晩期には脱亜論まで展開しました。
そんな福沢の名言が、あの有名な言葉です。
◯福沢諭吉の名言
”天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず”

まとめ
幕末の日本は、上記の偉人たちのおかげで欧米の脅威から守られました。
彼らがいなければ…、もし日本も清とか他のアジア諸国と同じ運命をたどっていたら、きっと今とは違う世の中になっていたことでしょう。
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