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岩倉具視の名言!”我が国小なりといえども…” の意味とは?

岩倉具視の名言日本人の名言

”我が国小なりといえども誠によく上下同心その目的を一にし、務めて国力を培養せば、宇内に雄飛し万国に対立するの大業甚だ難しきにあらざるべし。”



これは維新十傑の一人である、岩倉具視ともみの名言です。他の志士たちが武士出身であるのに対し、岩倉具視は公家出身でした。その公家の中で薩長とつながり重要な働きをしてきたわけです。

この記事では、そんな岩倉具視の人物像と功績、この名言に込められた意味を解説していきます。


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岩倉具視の名言

岩倉具視

時は幕末の世。皇族の中でもさまざまな出来事が起きていました。そんな時、ある一人の男にスポットライトがあたりました。



男の名は、岩倉具視。このような名言を残しています。

我が国小なりといえども誠によく上下同心その目的を一にし、務めて国力を培養せば、宇内に雄飛し万国に対立するの大業甚だ難しきにあらざるべし。



まずは、岩倉具視の人間性に触れてみましょう。

いやいや、私はすぐにでも意味を知りたいという方はこちらに進んで下さい。⇨ 岩倉具視の名言の意味


幕末・明治維新の名言に関する総集編のような記事を書きました。ぜひこちらの記事も御覧下さい。

⇩  ⇩  ⇩

幕末・明治維新の名言集!志士&偉人たちはどんな思いを持っていたのか?
幕末・明治維新の名言集です。維新の流れに沿って偉人たちの生き様を解説しました。今までの幕末・明治維新の総集編です。

岩倉具視とはどんな人

幕末・明治初期の政治家。公爵。

1825年公卿・堀河康親の次男として京都で生まれ、1883年59歳で喉頭癌により死去。


けっきょく何をした人

倒幕派の薩長とともに王政復古を果たした


岩倉具視の功績

五百円札の岩倉具視

  • 王政復古
  • 岩倉使節団を結成し、欧米の産業・文化を日本に持ち帰った
  • 征韓論を阻止した
  • 5百円札のモデルになった



明治維新と言うと薩長の力で行われたと思いがちですが、そうではなかったんですね!こと王政復古に限っては、岩倉具視が中心になって行われました。

幕府は大政奉還後も、権力を持っていました。幼い明治天皇には権力がないからと高をくくって大政奉還をしたからです。薩長藩も大政奉還をした幕府を攻めあえいでいたようですね。


そんな時に、王政復古の大号令を出すことで幕府の権力をもぎ取ったのが岩倉具視です。王政復古の大号令の内容は次の5項目。

  • 将軍職辞職を勅許
  • 京都守護職・京都所司代の廃止
  • 幕府の廃止
  • 摂政・関白の廃止
  • 新たに総裁・議定・参与の三職をおく

同時に禁門の変以降から、朝敵になっていた長州藩などの尊王攘夷派と公家の一部が赦免となり、戊辰戦争へと発展していきました。



また、旧幕府は欧米諸国と不平等条約を提携していました。

  • 1854年日米和親条約
  •    日英条約
  • 1855年日露通好条約
  •    日蘭和親条約
  • 1858年日米修好通商条約
  •    日蘭修好通商条約
  •    日露修好通商条約
  •    日英修好通商条約
  •    日仏修好通商条約



この全てが日本に不利な条件だったわけです。岩倉使節団は、その不平等条約を改正することが目的として設立されました。

1872年~73年にかけて、英・仏・ベルギー・欄・独・露・デンマーク・スウェーデン・伊・オーストリア・スイスなどを訪問。

目的を果たすことは出来ませんでしたが、代わりに欧米の近代政治・産業・文化・科学を持ち帰ってきました。



やがて、不平等条約は1910年日本の韓国併合とともに無効となります。日本が力をつけてきたため、欧米列強もこれは無理だと判断したからです。



征韓論とは、韓国を武力によって開国させようとする考えのことをいいます。

日本は欧米諸国とのやりとりで国際ルールを認識していました。しかし、韓国はまだ国際ルールを理解できていなかったことが事の発端となっています。

 
1968年明治新政府が出来ると、韓国は今まで続いていた国書の受理を拒否してきました。理由は江戸時代から続いた形式と違うから。
 
その後、日本は説明のため何度か使者を送りましたが、すべて門前払いされました。

韓国は排日を強くし、釜山では役人先導によるボイコットを行いました。さらに新政権の大院君は、日本人に関わると処刑すると布告。

 
その時の使者の一人・佐田白茅さだ はくぼうが帰国し征韓を申し立てたことから、明治政府の間で征韓論が白熱しました。その結果、西郷隆盛を派遣することで決議されていました。

この時、政府の要人は岩倉使節団として欧米へ渡航していたんですね。しかし、帰ってきた岩倉具視・木戸孝允・大久保利通は征韓論に反対します。


なぜか?

岩倉具視は、まずは国力を充実させるべきで、征韓は時期尚早だと主張しました。この時に、明治天皇が岩倉の意見を選んだため、征韓論は実行されなかったわけです。



では次の章から、岩倉具視の生き方を一緒に見ていきましょう。

岩倉具視の生き方

岩倉具視(当時は堀河周丸ほりかわ かねまる)は、子供の頃から異彩を放っていました。しぐさとか格好、喋る言葉が公家らしくなく、明らかに他とは違う雰囲気があったからです。

周りは岩倉を「岩吉」と呼び、茶化していたようです。しかし、こいつは大物に化ける器かも知れないと思った人物がいました。朝廷儒学者である伏原宣明です。

伏原は岩倉の素質を見抜き、岩倉家への養子縁組を推薦してくれました。岩倉家は公家としては中級ですが、それでも村上源氏の流れをくむ家柄です。周丸は14歳の時に、岩倉具慶の養子になりました。



こうして岩倉具視として元服し、朝廷に仕え、米百俵の手当を受けることがでることが出来たわけです。実は、当時は武士だけではなく公家も内職をしていました。公家とはいえ、それだけ生活が貧窮していたからです。

通常の公家は公家らしく、かるたや扇子を作っていたようですが、なんと岩倉は賭博場を作り、博徒を集めて生計を立てていたようです。もちろん当時も賭博は禁じられていたわけですが、役人も公家の家には簡単に踏み込むことはできませんでしたから。

とにかく若い時は、とんでもない不良公家だったようです。



そういった行動に変化が訪れたのは、それなりの年齢になってからです。29歳になった岩倉は、関白である鷹司政通たかつかさ まさみちのもとで歌道を習う決意をします。そして時期を見て、朝廷改革の意見書を鷹司に提出してきました。

後の岩倉公実記によると、「外国船が頻繁に来航してるにも関わらず、海防の何たるかを知らず、歌や蹴鞠を本職とする公家の旧習を一変させたい」という想いがあったようです。

当時の公家社会は身分に厳しく、家柄のみで地位が決められていました。そのため、あえて鷹司政通に近づいたわけです。
 
この年は、ペリーの黒船が来航していた1853年。岩倉は鷹司に対し、朝廷が積極的に国政に関わるよう主張し、そのための人材育成を行うことを提案しています。

鷹司はすぐには返事をしませんでしたが、人伝えに「岩倉大夫は眼彩人を射て弁舌流るるが如し。まことに異常の器なり」と言ったとされています。しっかりと認められていたわけですね。鷹司としても、さぞびっくりしたことでしょう。



翌年になると鷹司の推薦で、岩倉は孝明天皇に侍従として指名されることになります。侍従とは天皇に供奉する官のことをいいます。

孝明天皇

孝明天皇

1858年、老中堀田正睦が日米修好条約の勅許を得るために上京してきました。日米修好条約というのは、あの不平等条約のことです。


しかし、これは岩倉らの反対があり、孝明天皇は勅許を出さなかったのです。岩倉はすかさず、孝明天皇に「神州万歳堅策」を提出しました。その内容がこちらです。

  • 日米和親条約には反対
  • 条約を拒否することで日米戦争に発展した場合の政策
  • 相手をよく知るために欧米各国に使節団の派遣
  • アメリカは将来同盟国になる可能性がある

 
だが、大老井伊直弼が独断で日米修好通商条約を締結してしまいました。続いてオランダ・ロシア・イギリスと次々に不平等条約を結んでしまったのです。

もちろん、これを知った孝明天皇は激怒しました。天皇の勅許を無視するとは許しがたかったことでしょう。これは言い方を変えれば、それだけ天皇家の力が弱かったことを意味します。



さらに井伊直弼は、反対派を徹底的に弾圧しました。数々の反対派が捕まり、処刑されました。やりたい放題ですね!これを安政の大獄といいます。長州藩の天才吉田松陰も、この大獄の犠牲になった一人です。
 
岩倉は、大獄が公家にまで及ぶことを心配し、京都所司代の酒井忠義らと会談しました。岩倉は、朝廷と幕府の対立は国家のためにならないと説きました。

すると、酒井と意気投合し、それ以来岩倉は幕府よりの考えになることになります。朝廷を守るために、ある程度幕府側の考えを取り入れる必要があったからかもしれません。しかし、これが後に大変なことへと繋がっていくことになります。

 
幕府の多く人間は公武合体派ででした。朝廷と公家が一体となって外敵を処理するという考え方です。幕府も力が弱くなっていたときなので、朝廷の権威を利用しようと考えたわけです。

その一環として、幕府は将軍家茂の正室に皇女和宮を求めてきました。和宮にはすでに婚約者がいました。孝明天皇も一度は断りましたが、幕府からの度重なる要請と岩倉の薦めもあり、とうとう受諾してしまいました。

ただし、それには攘夷を実行し、鎖国までの状態に戻すことを条件としました。こうして、幕府と皇室の政略結婚が行われました。

ちなみに、家茂は側室を持つこと無く、一生和宮を大切にしたと言います。和宮も家茂亡き後、徳川の人間として江戸城の無血開城に尽力しました。



やがて時が経つと、桜田門外の変が起きました。井伊直弼が暗殺されたのです。反対派による仕業です。それ以来、尊王攘夷派が台頭してくるようになります。

また、岩倉も幕府に肩入れしているとして、尊王攘夷派から命を狙われることとなりました。危険を感じた岩倉は、近習職を辞職。

さらに孝明天皇まで親幕派だと疑われたため、岩倉に辞官と出家を命令しました。ついに岩倉は朝廷での居場所をなくし、5年間もの潜伏生活を強いられたわけです。この潜伏期間は、とても辛いものだったと後に語っています。



1863年、孝明天皇は会津藩・薩摩藩と手を結び、尊王攘夷派を京都から一層することに成功しました。これを八月十八日の政変と言います。それでも岩倉が赦免されることはありませんでしたが。

しかし、薩摩藩の一部と朝廷内の同志が、再び岩倉の元へ訪れるようになっていきました。岩倉具視の力を必要としたからです。



実は、岩倉はこのころから、公武合体派から倒幕派へと考えを改めています。原因は薩英戦争下関戦争です。

下関戦争

この2つの戦いで、薩摩藩と長州藩は欧米列強の強さを知りました。今までの自分たちの考えでは太刀打ち出来ないと悟ったわけです。

さらにそこへ、中岡慎太郎坂本龍馬の仲介により、まず薩長がお互い協力し、討幕へと向かうべきだと考えを修正していきました。


岩倉のもとにも中岡慎太郎と坂本龍馬が訪れ、岩倉も薩長同盟に賛成したと言います。薩摩の大久保利通も岩倉のもとを訪れ、討幕と王政復古の実現を話し合ったようです。

 
1867年、孝明天皇が天然痘によりご崩御されると、幼い明治天皇が即位しました。すると、薩長藩は朝廷から「討幕の密勅」が与えられることとなります。この時の中心になったのが岩倉具視です。

しかし、その動意を嗅ぎつけた将軍慶喜は、すぐに大政奉還を行いました。薩長軍が幕府を攻める名目を失くすためです。俄然、力は幕府の方に残ったわけです。



そこで岩倉が次にとった方法が、王政復古の大号令です。これで、幕府の権力をもぎ取ることに成功したわけです。同時に、長年の夢であった王政復古を実現した瞬間でした。

1868年、王政復古に不満を持った旧幕府軍は、戊辰戦争を起こします。この戊辰戦争で、倒幕派である新政府軍が圧倒的な勝利を得たのは、朝廷の密勅と言う後ろ盾があったからですね。これを機に、幕府側は反逆する立場に立たされたわけです。



さらに岩倉は新政府でも、予てからの岩倉使節団を実現しました。使節団は外務卿であった岩倉具視を特命全権大使とし、副使に木戸孝允・大久保利通・伊藤博文・山口尚芳を従えた全107名で行われました。

岩倉使節団

岩倉使節団 向かって左が木戸孝允、中央が岩倉具視、その右が伊藤博文と大久保利通

初めて欧米諸国を見た岩倉は、カルチャーショックを受けたと言います。出発する前の写真で岩倉だけ髷なのは、髪は日本人の魂であると考えていたからだそうです。

しかし、アメリカに留学していた息子の具定に説得され、シカゴで髷を落としています。



また岩倉は、日本人で初めて癌を宣告された人物としても知られています。

1883年の初旬から、喉頭癌の症状が出始めました。それを心配した明治天皇が、東京大学医学部教授のエルヴィン・フォン・ベルツを呼び寄せて診断させたことでわかりました。

ベルツは岩倉に癌であると告知。岩倉は59歳にて死去しています。



尚、勝海舟は岩倉具視をこんなふうに評価していたようです。

「度量が大きくて、公卿の中でも珍しい人物であったよ。おれにさえ平気で政治上の事をいろいろ諮問せられた」

引用元:Wikipedia

勝海舟は、見たままのことをズバッというタイプなので、そうなのでしょう。



同じく伊藤博文も、こんなふうに評価しました。

「公は中々聡明英達の人であって、決断もあり、胆力もあり、かつ実に明弁であった。明弁にしてことの是非得失を観ることが明らかの人であった。我輩は岩公にいうた『閣下がもし元弘建武の世に生まれたならば、決して新田、足利をして争わしむることなく、王政復古は二百年前に出来たであろう』と。公は実に一世の豪傑であった」

引用元:Wikipedia

ともに大絶賛していたことが伺えます。


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岩倉具視の名言の意味とは?

日清戦争の風刺画

日清戦争の風刺画。魚が韓国。

我が国小なりといえども誠によく上下同心その目的を一にし、務めて国力を培養せば、宇内に雄飛し万国に対立するの大業甚だ難しきにあらざるべし。

日本は確かに小さな国かもしれないが、みなが同じ方向を向くことが出来れば、世界を相手に勇躍することは決して難しいことではない。

…という意味です。



実際に、征韓論に反対したのは、まだ時期尚早だと判断したからです。韓国を攻めるということは、同時に清も敵に回すという事。今の日本の軍事力では、清には勝てないと計算したわけです。

しかし、それから数年後、富国強兵政策を取り入れた日本は見事に清に勝利し、韓国を併合しました。さらに当時無敵のバロチック艦隊を誇るロシアにも勝利しています。

この時岩倉は死去していましたが、その考えが現実のものとなった瞬間でした。


この名言を自分に役立てるには?

サッカーボール

岩倉具視は日本という国単位で考えていましたが、この方程式は個人にも適応することが可能です。


こんなふうに変換してみてはどうでしょうか?

日本と清の軍事力を正確に見定める
(今の日本の海軍力では清に勝てない)

今の自分とライバルの能力を正確に判断する

日本に足りない軍事力を補強していく
(欧米の富国強兵政策を取り入れる)

自分に足りない部分を勉強実践し補強していく

国の力を一点集中させる
(廃藩置県により権力を政府に集中)

その上で自分の能力を得意分野に集中させる

機が熟してから勝負に出る
(日清戦争・日露戦争で勝利)

自分に力がついてから本格的に勝負をかける



有名な孫子の兵法にも「彼を知り己を知れば百戦殆うからず」という諺がありますが、これにも通じますよね(´▽`v)

絶対に負けるわけにはいかない時などに、活きてくると思います。


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おわりに

岩倉具視は、自分が大将になることは決してありませんでした。一風変わっていて人と違うものを持っていましたが、常に誰かをサポートしています。

そこが、他の志士たちから信頼されてた部分なのかも知れませんね^^

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この記事を書いた人
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