”俺は武士よりも武士らしい武士になる”
これは、泣く子も黙ると言われた剣客集団、新選組局長近藤勇の名言です。副長土方歳三とともに新選組を率いて、幕末に一石を投じました。
この記事では、そんな近藤勇の人物像と功績、この名言に込められた意味を解説していきます。
近藤勇の名言
ペリーの黒船来航以来、今の江戸幕府では日本を守れないという思想が各藩で横行していました。
この時に、だから幕府の力になろうとするのか、それとも別の勢力を持って日本を強くしようとするのか、意見が2つにわかれます。近藤勇は前者でした。
彼が言った名言がこちらです。
”俺は武士よりも武士らしい武士になる”
まずは、近藤勇の人間性に触れてみましょう。
いやいや、私はすぐにでも意味を知りたいという方はこちらに進んで下さい。⇨ 近藤勇の名言の意味
幕末・明治維新の名言に関する総集編のような記事を書きました。ぜひこちらの記事も御覧下さい。

近藤勇とはどんな人
幕末の剣士。天然理心流4代目宗家および、新選組局長。
1834年に武蔵の国多摩郡の農家宮川久二郎の3男として生まれ、1868年35歳で死去。
けっきょく何をした人
近藤勇の功績
- 歴史的な功績はなし
- 新選組の局長として統率を図った
- 池田屋事件で尊王攘夷派を襲撃
- 勝海舟と徳川幕府を守った
幕府が負けて新選組も逆賊となったため、近藤勇に歴史的な功績はありません。しかし、幕府寄りに立てば一石を投じたことに変わりはありません。その名は永遠に残ります。
また、最後まで新選組を守り、統率を計るために副長土方歳三とともに鬼になっています。
池田屋事件では、長州藩と土佐藩の尊王攘夷派が潜伏していた池田屋を襲撃します。
近藤は先陣を切って突撃し、新選組は9名を討ち取り、4名を捕縛しました。この働きにより新選組の名は天下に轟くことになります。
甲州勝沼の戦いでは、負けるが土方歳三ら仲間を逃がすために投降したとされています。さらにその時、新政府軍に勝海舟との関係はないと言い張りました。
ではここで、近藤勇がどんな人生を歩んでいったのかを、一緒にみていきましょう~!!
近藤勇の生き方

新選組発祥の地
近藤(本名宮川)勇の実家は農家でしたが、わりと裕福で、父久二郎は自分の子に立派な武士になれるよう教育しました。
久二郎は息子たちに、「三国志」「水滸伝」など英雄物を読み聞かせたと言います。特に勇は、関羽が好きだったようですね。
そして、3人の息子たちに自宅で剣の修業をさせていました。その力の入れようは中々のもので、天然理心流3代目近藤周助に宮川家まで出稽古に来てもらっていたくらいです。
15歳になった勇は、周助の道場「試衛館」に入門することになります。翌年には、子のいない周助の養子にならないかと話が持ち上がり、姓を近藤に変えることになりました。
こうして、剣の道にズッポリはまるわけですが、18歳の時に同門の佐藤彦五郎から土方歳三を紹介されています。その彦五郎とは、義兄弟の契りを結んでいます。

天然理心流の木刀
1860年27歳になると、勇は天然理心流4代目宗家を襲名します。この頃にはペリーの黒船来航の影響で、日本はかなりざわつき尊王攘夷派が幅を利かせるようになっていました。
そこで1863年、幕府は将軍徳川家茂を警護する浪士組を募集します。近藤勇を含む試衛館8名は、この浪士組に応募し参加することとなりました。
壬生浪士組は八月十八日の政変で成果を上げ、武家伝奏から新選組という名称を送られます。そして、池田屋事件では近藤は率先して切り込んでいきました。
池田屋事件とは、京都の池田屋に潜伏していた長州藩と土佐藩の尊王攘夷派を新選組が襲撃する事件です。この功績が認められ、1867年新選組は幕臣となっていきました。
幕臣とは将軍直属の家臣のことで、旗本・御家人がそれにあたります。
ですが、時代は討幕へと流れることとなります。翌年王政復古の号令がなされると、戊辰戦争が起こることとなります。
少数対少数ではやたらと強い新選組ですが、大規模な戦争ではそうはいきません。新選組は鳥羽伏見の戦いで敗北。この時は副長の土方が指揮しています。
近藤勇ら新選組は勝海舟から、甲府を押さえるよう指示を受けました。同時に、近藤は大久保剛(大和)、土方は内藤隼人と改名し、組名も新選組から甲陽鎮撫隊に変更しています。
ちなみに、新政府軍からは土佐藩の板垣退助率いる迅衝隊が向かいました。土佐藩は坂本龍馬・中岡慎太郎の仇討ちが出来ると喜んで進軍したと言います。
しかも迅衝隊の兵力は1400。対し甲陽鎮撫隊はわずか121で、新選組の残党と寄せ集めの兵隊で作られた軍隊でした。この戦いを甲州勝沼の戦いと言います。

迅衝隊(下段中央が板垣退助、板垣の左上の首巻きをしているのが谷干城)
結果は明らかで、約2時間で勝負がつきました。さらに、流山に集結した新選組を新政府軍が包囲。
追い詰められた近藤は、大久保大和として敵方に投降しました。その隙に土方が新選組残党を逃す作戦です。
江戸に戻った土方は、近藤を助けるよう勝海舟に談判に行きますが、その願いは叶いませんでした。大久保が近藤勇だと新政府軍にバレてしまったからです。
近藤勇は35歳の若さで、京都で処刑されました。近藤の斬首をもっとも望んだのは土佐藩の谷干城(上記写真)であったと言います。さらに谷は、甲陽鎮撫隊の動きが勝海舟の指示によるものでなかったのかを拷問により吐かせたかったようです。
ですが、薩摩藩の平田宗高が、江戸の無血開城を控えた大事な時期に問題を起こすべきではないと反対したため、それは成しえませんでした。
近藤勇の辞世の句です。
”孤軍たすけ絶えて俘囚となる 顧みて君恩を思えば 涙,更に流る また 義をとり生を捨つるは 吾が尊ぶ所快く受けん電光三尺の剣 只将に一死ふは君恩に報いん”
意味はこんな感じです。
今回の名言にも、通じるものがあります。ブレがありません。
近藤勇の名言の意味
”俺は武士よりも武士らしい武士になる”
これは、近藤が壬生浪士組として京都に出向く時に放った言葉です。このような想いが含まれていたとされます。
当時の旗本・御家人は堕落していて、武士らしい働きをしていない。これではとても国家の一大事に用を成すことができそうにない。だから代わりに新選組が誠を貫く。
そう言えば、新選組と言うと「誠」の旗がシンボルになっていますよね!
この名言を自分に役立てるには?
この名言は、何にでも役立てることができます。
たとえば、自分の会社の部長がだらしない時に、「俺が部長よりも部長らしい部長になる」と宣言したりできますよね。(´▽`v)
部長らしい部長とは、自分が思う本物の部長のことです。それを目標に頑張ることで、行動にブレがなくなります。
他にも、既存のカレーに満足できない時に、「俺が本物のカレーよりカレーらしいカレーをつくる」と宣言することで、かなりクオリティーの高いオリジナルカレーを作れるかも知れません。
いろいろと応用できると思いますので、ぜひ活用してみて下さい。目標設定する時なんかに良さそうですね!
まとめ
幕府寄りの立場で見ると非常にカッコいい新選組ですが、維新寄りに立てば明治維新を遅らせた悪の要因の一つです。
ただし、変化を起こそうとすると必ず何かしらの反対勢力はあります。そう言った意味では、新選組の近藤勇の存在は、とても価値があったことと思います。
コメント大募集!( ´ ▽ ` )ノ