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前田利家の名言!”人間は不遇になった時、初めて友情のなんたるかを知るものだ” の意味とは?

武田利家の名言 日本人の名言

”人間は不遇になった時、初めて友情のなんたるかを知るものだ。”



これは一代で加賀百万石を築き上げた、前田利家の名言です。前田利家というと傾奇者(かぶき者)として有名です。

この記事では、そんな前田利家の 人物像と功績、この名言に込められた意味を解説していきます。


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前田利家の名言

前田利家の銅像1

傾奇者とは室町時代後期から江戸時代初期にかけて流行った風潮で、男伊達を競い派手な身なりや行動を取る者たちのことをいいます。

織田信長も傾奇者であったという人もいますが、有名なのはなんと言っても前田利家でしょう。



そんな前田利家の名言がこちらです。

人間は不遇になった時、初めて友情のなんたるかを知るものだ



まずは、前田利家の人間性に触れてみましょう。

いやいや、私はすぐにでも意味を知りたいという方はこちらに進んで下さい。⇨ 前田利家の名言の意味



戦国武将の名言に関する総集編のような記事を書きました。ぜひ、こちらもご覧下さい。

⇩  ⇩  ⇩

戦国武将の名言集!信長から家康まで時代背景に合わせて解説してみた
戦国武将の名言集です。信長から家康まで時代背景に合わせて解説してみました。今までの戦国武将の総集編です。

前田利家とはどんな人

戦国時代から安土桃山時代を生きた武将です。出で立ちが派手で槍の達人であったため、傾奇者、槍の又左と呼ばれました。

1537年、尾張の荒子城主前田利昌の4男として生まれ、1599年62歳で死去しています。おそらく癌ではなかったかと言われています。


けっきょく何をした人

加賀百万石を築いた人です。


前田利家の功績

  • 金沢城を築いた
  • 加賀藩の前田家の基を築く



武勇伝はたくさんある前田利家ですが、政治的な功績はほとんど残っていません。強いて言えば、交渉役が得意だったと伝えられています。


前田利家とはどんな人物

前田利家の銅像

前田利家は、14歳で織田信長に小姓(世話係)として使えました。4男だったので、当初は後継ぎと考えられなかったからです。後に信長の命令で家督を継ぐことになりますが…。


初陣は15歳でしたが、冒頭で述べたとおり腕には自分があったのでいきなり首級の功績を挙げます。

1556年の稲生の戦い、58年の浮野の戦いでも大活躍し、周りから槍の又左と呼ばれました。これが信長に気に入られる要因になります。


そんな時に事件が起きます。23歳の時、信長のお気に入りの茶坊主拾阿弥じゅうあみを、なんと信長本人の目の前で斬り殺してしまったんです。

拾阿弥は態度も横柄で、利家を何度も侮辱したとされています。でも信長のお気に入りなんですね。信長は利家のその行為に激怒し、処刑を宣告しました。


それを助けたのが、同じく織田家臣の柴田勝家と森可成です。この2人の口利きで前田利家は織田家を追放されるだけで済みました。

そんな利家に今までの仲間は離れていったようですが、信長の世話係からの付き合いのある羽柴秀吉だけは仲良くしてくれたようですね。



この追放劇ですが、利家にとっては死活問題でした。浪人になるわけですから、誰からも給料をもらうことが出来ません。

そこで、腕に自信のあった利家は、無断で桶狭間の戦いに参戦して武功を挙げます。しかし、それでも信長は利家を許さなかったようです。



信長の心が変わったのは、1561年に森部の戦いです。この時も利家は無断で参戦し、猛将足立六兵衛を打ち取りました。

この武功が認められ、ようやく織田家へ戻ることが許されました。そして1583年信長の命令で、利家は前田家の家督を継ぎ当主になりました。



その後、本能寺の変がおき信長は亡くなってしまいます。1583年には、その後継者争いとして賤ヶ岳しずがたけの戦いが。

羽柴秀吉軍と柴田勝家軍のぶつかり合いです。利家はこのどちらにも恩義がありました。

最初は柴田勝家側として戦いに参加しますが、まともに戦うこと無く途中で兵を引き上げてしまいます。そして、羽柴軍に加勢することになりました。結果、柴田勝家軍は大敗北し、勝家は自決。
 
前田利家はそれ以降、右腕として豊臣秀吉を支えることになります。1598年に、家督を息子の利長に譲ると隠居し、豊臣政権五大老の一人になっています。


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前田利家の名言の意味とは?

前田利家の兜

”人間は不遇になった時、初めて友情のなんたるかを知るものだ”



槍の又左として信長に気に入られていた頃は、周りもちやほやしてきました。しかし、信長の怒りをかって勘当されると、人はいなくなりました。利家を避けるようになったのです。

そんな時に、秀吉だけは今までどおり接してくれたわけです。利家は、これを身をもって体験したからこそ、この名言を発したわけです。
 
さぞや辛かったことが伺えます。利家は、後に自分の娘を秀吉の養女に差し出していますから。これも感謝の現れの一つでしょう。


この名言を自分に役立てるには?

金沢城

この名言ですが、利家より秀吉の行動に学ぶべきものが多いです。

人たらしとして知られる秀吉ですが、そう呼ばれたのはあくまで結果論であって、単に自分の気持ちがそうさせたからそうしただけであることがわかります。


今の世の中でも、仕事から失脚する人、突然収入が激減する人、病気になってしまう人は必ずいます。

でも、そんな時こそ寄り添って力になってあげると、その友人が復活した際に今度は自分の力になってくれます。

心のつながりは、お金や地位よりも大事であるということですね!



もちろん、見返りを求めてやってはダメです。それだと心がつながらないので意味がありませんから。失脚した人とか、落ちぶれた人というのはショボく見えてしまいます。

だからといって突き放すのではなく、自分に置き換えて考えてみることが大事なのかも知れません。


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まとめ

前田利家は武功以外、特にこれといった功績は残していません。しかし、加賀百万石を創り上げました。

これはひとえに、秀吉との人間関係が出来ていたからです。

 

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この記事を書いた人
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