「役立つ情報がいっぱい!」をSNSで応援しよう!
スポンサーリンク

大隈重信の名言!”諸君は必ず失敗する” の意味とは?

大隈重信の名言 日本人の名言

”諸君は必ず失敗する”



これは、早稲田大学の前身となる東京専門脱肛を設立した、大隈重信の名言です。維新三傑よりは目立たない存在ですが、大隈重信は日本の政治にとって重要なことを成し遂げました。

この記事では、そんな大隈重信の人物像と功績、この名言に込められた意味を解説していきます。


スポンサーリンク

大隈重信の名言

大隈重信2

明治新政府が出来ると、多くの新しい問題が浮上してきました。その問題の一つである外交で力を発揮したのが大隈重信です。


彼の名言がこちらです。

諸君は必ず失敗する。成功があるかもしれませぬけど、成功より失敗が多い。失敗に落胆しなさるな。失敗に打ち勝たねばならぬ。



まずは、大隈重信の人間性に触れてみましょう。

いやいや、私はすぐにでも意味を知りたいという方はこちらに進んで下さい。⇨ 大隈重信の名言の意味



幕末・明治維新の名言に関する総集編のような記事を書きました。ぜひこちらの記事も御覧下さい。

⇩  ⇩  ⇩

幕末・明治維新の名言集!志士&偉人たちはどんな思いを持っていたのか?
幕末・明治維新の名言集です。維新の流れに沿って偉人たちの生き様を解説しました。今までの幕末・明治維新の総集編です。

大隈重信とはどんな人

明治・大正時代の政治家。第8・11代内閣総理大臣。
1838年、佐賀藩士大熊信保の長男として生まれ、1922年85歳で死去。


けっきょく何をした人

板垣退助と一緒に日本初の政党内閣を組織し、東京専門学校(現早稲田大学)を設立した


大隈重信の功績

早稲田大学

  • イギリス公使パークスの抗議を収めた
  • 板垣退助と日本初の政党内閣を組織した
  • 東京専門学校(現早稲田大学)を設立した
  • 野球の始球式で空振りの慣例を作った
  • 日本で初めてメロン栽培をした



当時の新政府は、旧幕府のキリスト教禁止令を継承していました。それにイギリス公使パークスが猛抗議!怒涛の勢いで迫ってきたわけです。

このパークスとの交渉を、政府高官は嫌がりました。そんな時、英語も話せてキリスト教にも詳しい大隈に、白羽の矢があたりました。

 
パークスは、当時まだ無名で身分の低い大隈を小馬鹿にしていましたが、そんなパークスに大隈はこう言い放ったとされます。

「一国の代表者である私と話したくないと言うのなら、抗議は全面撤回とみなす。また、あなたの言うことは、国際法で禁止されている内政干渉である。」

引用元:Wikipedia

パークスは日本の若者から「国際法」「内政干渉」という言葉が出てきたことに驚きを隠せませんでした。無名の大隈が、パークスと互角に渡り合ったわけです。そして、その功績が政府内で評価されることになります。



政党内閣とは、議会で多数を占めた政党を基礎として組織される内閣のことで、大隈はその初代総理大臣になっています。一度は政界を追放された大隈ですが、板垣退助と手を組むことでその地位を手に入れることに成功しました。

 
ですが、このコンビに対して勝海舟はこのように評しています(笑)。

「板垣はあんなお人よしなり、大隈は、あゝいふ抜目のない人だもの、とても始終仲良くして居られるものか。早晩必ず喧嘩するに決まっているよ。」

お人好しの板垣と抜け目のない性格の大隈とでは、所詮水と油の関係であると言ってるわけですね!

この政権は勝海舟の予想通り5ヶ月の短命で終わりましたが、日本の政治に風穴を開けたのは確かでした。



また早稲田大学の前身は、大隈が設立した東京専門学校です。実は、酒の席で福沢諭吉に「あなたも学校をおやりになったらどうです?」と勧められて1882年に作ったのが東京専門学校でした。

自分の後継者を育てるべく、立憲政治の指導的人材の育成を目的としています。イギリス流政治経済学の構築を目指しました。大隈は、この東京専門学校の初代総長になっています。

ちなみに東京大学は、ドイツ流の法学を中心とする学問形態です。



1908年になると、アメリカ大リーグの選抜チームと早稲田大学野球部は試合を行いました。この時の始球式を大隈が投げたんです。

もちろん、球は大きく外れてしまいましたが、早稲田大学の1番打者が大隈総長を忖度し、わざと空振りをしました。それ以降、始球式は空振りすることが慣例となりました。



さらに大隈重信は、日本人で初めてマスクメロンを食べ、初めて栽培した人としても知られています。海外でその美味しさを知り、日本に持ち帰り栽培を始めたようです。

マスクメロン協会を設立し、晩年には自宅の温室でメロンを栽培して品種改良品まで行いました。ちなみに、マスクメロン協会の初代会長は伊藤博文



では、ここで大隈重信がどんな人生を歩んでいったのかを、一緒にみていきましょう。
 

大隈重信の生き方

江戸時代の大隈重信

大隈重信は、わりと裕福な家庭に生まれたらしく、子供の頃からちゃんと教育を受けています。

7歳で、佐賀藩校である弘道館に入学。弘道館は、佐賀特有の葉隠思想の儒教を教育していました。

葉隠とは、武士道精神を説いた佐賀に伝わる修養書で、「武士道とは死ぬことと見つけたり」が有名な教えです。弘道館は、葉隠さえ読んでいれば事足りると教育していたようです。


しかし時代は、イギリスやロシア艦船が港に姿を見せていました。果たして儒教だけの教育でいいのか?それを目のあたりにした若者たちは、洋学への関心を高めることとなります。

大隈重信も弘道館のやり方に反発し、17歳の時に同士と藩校の改革を訴えています。



そして翌年、学生たちの不満がたまり南北騒動が起きると、大隈は弘道館を退学になってしまいました。

南北騒動とは、儒学派とそれでは飽き足らない派の殴り合いの喧嘩のことで、大隈がこの騒動の首謀者とみなされたからです。

その後、復学が許されましたが大隈は戻らず、藩主鍋島直正にオランダ憲法について意見を述べました。すると、その行動が功を奏し、弘道館に蘭学寮が設置されることになります。大隈は、教授として蘭学を教えることになりました。



しかもそれでは飽き足らず、1862年に長崎で宣教師フルベッキの英語の抗議を受けることに。さらに翌々年にはフルベッキに個人授業まで受けています。この時に、新約聖書とアメリカ独立宣言に興味を示したと言われています。



…と、事は順調に進んでるように見えましたが、なぜか京都で捕縛され、地元佐賀に強制帰還され1ヶ月の謹慎処分を受けることに。いったい何をしでかしたのでしょうか?

実は、大隈は尊王派だったため、15代将軍徳川慶喜に大政奉還を訴えたかったようです。佐賀藩を脱藩して、京都に赴いたところを捕縛され謹慎処分になりました。



ところが明治維新が成されると、薩摩藩小松帯刀の推薦で徴士参与職・外国事務局判事に大抜擢されることとなります。

新政府は、旧幕府のキリスト教禁止令を継承していました。キリスト教に関しても、社会を惑わす邪宗門と表現したわけです。それに対して、イギリス公使パークスは撤回を求めました。

当時の外国事務局判事は伊達宗城むねなりで、「それは出来ない」と答えたそうです。もちろんパークスは激怒して猛抗議!伊達はパークスの抗議を押さえきれなかったようです。

そんな時に大隈が起用されたわけです。どうなったかは上記に書いたとおりです。尚、キリスト教は1873年に解禁されています。

この活躍が認められ、新政府の要人として出世街道を歩むこととなりました。



しかしその後、大隈は政界から追放されることとなります。憲法をドイツ(ビスマルク)型にするかイギリス型にするかで伊藤博文・井上馨と対立したんです。伊藤と井上はドイツ型支持でした。

こうして、イギリス型を支持する大隈は政府から追放されたわけです。これを明治十四年の政変と言います。



大隈は終わったと思われましたが、なんと4年後に政界へ復活しています。それは、伊藤博文が大隈を呼び戻したからです。伊藤はどうしても大隈の外交手腕が必要だったわけですね。

そこで大隈を外務大臣に任命。この責務は黒田内閣でも引き継がれましたが、大隈はこの後、国家主義組織玄洋社の爆弾テロを受けるという悲劇に見舞われます。

右足を切断するという重症をうけました。手術をうけるために外務大臣は辞職です。これを大隈重信遭難事件と言います。

大隈重信


普通ならここで終わりかも知れませんが、それでも大隈重信は義足を付け復活してきました。

第2次松方内閣で外務大臣に任命されると、翌年には辞任し板垣退助と憲政党を結成します。そして、日本で初めて政党内閣を樹立するに至るわけです。それまでは薩長中心の藩閥政治でしたから。

この内閣を隈板内閣と言います。しかし、これも短命に終わっています。


政界引退後は、早稲田大学の総長へ就任しましたが、7年後には再度政界へ復帰。76歳で2度目の内閣総理大臣に就任しました。

1922年(大正11年)、胆石症で死去。85年の生涯に幕を閉じるまで、さまざまな苦難を乗り越えてきています。


スポンサーリンク

大隈重信の名言の意味とは?

大隈重信の銅像

諸君は必ず失敗する。成功があるかもしれませぬけど、成功より失敗が多い。失敗に落胆しなさるな。失敗に打ち勝たねばならぬ。たびたび失敗すると、そこで大切な経験を得る。この経験によって、もって成功を期さなければならぬのである。

これは、大隈重信が早稲田大学の入学式で発した言葉です。大隈重信の成功が、失敗をベースに構築されていったのは、彼の経歴を見ればわかりますよね?

それゆえ、大隈には失敗に関連する名言が多いです。他にもこんな名言がありました。

個人としては幾多の失敗を重ねたが、しかし恐縮はせぬ。失敗はわが師なり。失敗はわが大なる進歩の一部なり

要は、失敗のない成功はないと言っているわけです。一見華やかな人生に見えても、その裏では数多くの失敗を重ねています。それを見せないだけなんですね!


この名言を自分に役立てるには?

野球のスイング

野球選手を見ればわかりますが、3割打てれば一流選手と言われます。成績が右肩上がりになるなんてありえないわけです。

なぜなら、打てるようになると、翌年には必ず研究され、そして攻略されるからです。また自身のスランプだってあります。今年は打てても翌年は打てないことなんてザラです。

ここから多くの場合は、成功より失敗のほうが多いことがわかります。それを念頭に置いて成功をイメージすると、失敗しても、それは想定内となりえます。



特に初めてチャレンジすることは失敗しやすいですよね?

こんな時は、失敗した時のために、次に打つ手をあらかじめ考えておくことが大事になります。

すると、失敗してもめげないので、再チャレンジしやすくなります。人生なんて、この繰り返しですからね^^



似たような内容を、この記事でも書いていますので、ぜひこちらも読んでみて下さい。

佐久間象山の名言!"失敗するから成功がある" の意味とは?
佐久間象山の名言を解説します。"失敗するから成功がある" の本当の意味をご存知ですか?この記事では、そんな佐久間象山の人物像と功績、この名言に込められた意味をついて記載しました。
スポンサーリンク

おわりに

大隈重信はかなりの自信家であったと言います。でも、その自信も、失敗に打ちひしがれないという裏付けががあったからかも知れないですね!

失敗を成功への糧と捉えることが出来たからこそ、何度でも立ち上がることが出来たのかも知れません。

共感した、面白かった、役に立ったと思われる方は、ポチッと押して頂けると泣いて喜びますm(_ _)m


にほんブログ村 哲学・思想ブログ 名言・格言へ
にほんブログ村

この記事を書いた人
Mr.名言

管理人のMr.名言です。このブログは読者であるあなた様と一緒になって作っていくことを目指しています。

もし、他に面白い意見、感想、こんなこと知ってるよ等があれば、コメント欄から書き込んで頂ければ、当ブログにアップさせて頂きますのでご遠慮無くご投稿下さ~い♪誰でも投稿可能です(´▽`v)

役立つ情報がいっぱいをフォローしよう!
日本人の名言
Twitter・Facebookでシェアしよう!
役立つ情報がいっぱいをフォローしよう!
役立つ情報がいっぱい!

コメント大募集!( ´ ▽ ` )ノ

タイトルとURLをコピーしました