”世の人は我を何とも言わば言え、我がなすことは我のみぞ知る”
これは、明治維新に関わった偉人たちの中でもっとも人気のある坂本龍馬の名言です。今でも、その人気は衰えることを知りません。
この記事では、そんな坂本龍馬の人物像と功績、この名言に込められた意味を解説していきます。
坂本龍馬の名言
土佐藩の下級武士から、一国の運命を変えてしまう存在に…。
そんな坂本龍馬の名言がこちらです。
”世の人は我を何とも言わば言え、我がなすことは我のみぞ知る”
まずは、坂本龍馬の人間性に触れてみましょう。
いやいや、私はすぐにでも意味を知りたいという方はこちらに進んで下さい。
⇨ 坂本龍馬の名言の意味
幕末・明治維新の名言に関する総集編のような記事を書きました。ぜひこちらの記事も御覧下さい。

坂本龍馬とはどんな人
江戸時代末期の志士です。
1836年に土佐藩の郷士坂本八平の次男として生まれ、1867年33歳の若さで暗殺されました。
けっきょく何をした人
坂本龍馬の功績
- 薩長同盟を締結させた
- 船中八策の草案を作った
- 海援隊(亀山社中)を作った
坂本龍馬と言えば、薩長同盟を締結させたことでも有名ですが、当時の彼は脱藩してて浪人でした。なのに、仲が悪かった長州感と薩摩藩の同盟を提案し成功させた。それまで長州藩と薩摩藩は犬猿の仲で、特に長州藩は薩摩藩に強い恨みを持っていました。
ですが、これによって時代が本格的に討幕に動くわけですね。
さらに船中八策とは、竜馬が草案した新国家構想のことです。朝廷への政権奉還、二院制議会の設置、外国との不平等条約の改定、憲法の制定、海軍の拡張など8か条から成り立っています。これがなければ大政奉還は行われませんでした。
坂本龍馬は、日本初の株式会社を作ったことでも知られています。海援隊(亀山社中)という貿易会社を作り、銃や軍艦などの兵器を取り扱いました。
坂本龍馬とはどんな人物
坂本家はもともと土佐の豪商であり、父平八の代で郷士の格を購入したことから武士の仲間入りをしています。
そんな家で育ったわけですから、坂本龍馬が武士と商人の両方の感覚を持っていたとしても不思議ではありません。
また、後世の作り話ではないかという人もいますが、定説では竜馬の少年時代はいじめられっ子でした。やがて14歳になると、小栗流日根野道場に入門。ここで剣術の才覚を発揮し始めます。
今回の名言は、そんな少年時代に読んだ和歌です。
やがて19歳になると、剣術の腕を磨きに江戸まで行きます。北辰一刀流千葉定吉の門下生となったわけです。この頃から、行動のスケールが大きくなっていきます。
坂本龍馬は剣の達人ではなかったという噂がありますが、北辰一刀流の免許皆伝書が存在する事を示す資料が、高知県立竜馬記念館に寄与されているそうです。
そして、ちょうど竜馬が江戸に旅立った年に、ペリーの黒船が来航します。この時竜馬は、土佐藩士として江戸の警備に駆り出されています。
この頃から、いろんな人との出会いがあり、1862年には土佐藩を脱藩してしまいました。理由は、土佐という小さな世界にこだわるのに嫌気が差したんだそうです。もう、そんな時代ではないと感じていたんでしょうね。
翌年、同士と勝海舟の私塾に入学。この時、竜馬29歳。すでにアメリカに渡航経験のある勝の話す世界情勢と海軍の重要性に感服したとされています。
30歳の時には、その勝海舟の使者として京都で西郷隆盛と面会。続いて、桂小五郎(木戸孝允)と会い薩長和解を説きます。
竜馬は、幕府や藩に対抗するには下級武士同士が固まるべきだと考えたようですね。
また、薩摩藩が外国から購入した武器を長州藩へ売り、長州藩は兵糧米を薩摩藩に売るという持ちつ持たれつの関係を提案しました。
それが実ったのは1866年、竜馬が32歳になった時です。めでたく薩長同盟が成立しました。ここから日本は、大きく舵を切り直すことになったわけです。
しかしその翌年、33歳の時に船中八策を草案した後、11月15日に近江屋で何者かに暗殺されました。

坂本龍馬が履いていたブーツ
板垣退助が、もし坂本龍馬が40歳まで生きていたら、政治家より商人になったのではないかと語ったと言います。やはり、幼少時代に身につけたことが、その人の性格・考え方にまで影響したのでしょう。
ちなみに、板垣退助は戊辰戦争の時に土佐藩を率い、坂本龍馬と中岡慎太郎の敵とばかりに活躍しまくりました。甲州勝沼の戦いでは近藤勇率いる新選組を撃破しています。
坂本龍馬の名言の意味とは?
”世の人は我を何とも言わば言え、我がなすことは我のみぞ知る”
世間の人は自分を馬鹿にするけど、自分がやろうとしてることは自分だけが理解しているという意味です。
上の章でも書きましたが、これは竜馬が10代の頃に読んだ和歌です。
子供の頃はおねしょばかりして、泣き虫で楠山塾も成績が振るわずに退塾。唯一、剣術では才能が開花しましたが、勉強は相変わらずダメだった心を読んだ歌とされています。
しかし、私はこの名言から、坂本龍馬は子供の頃から目先のことではなく、もっとずっと先を見据えて行動していたと感じます。
この時点で、ダメダメでは無いばかりか、わりと優秀であったことが見受けられます。この信念があったからこそ、未来の大事を成し遂げることが出来たのでしょう。
この名言を自分に役立てるには?
自分の考えとは裏腹に、周りからバカにされたり非難されることは、現代でもよくあります。
でも、よく考えてみて下さい。自分を批判する人って、そもそも自分とは違う価値観を持っていたりしませんか?
価値観が違うと、求めるゴールも違います。だから、理解し合うことが出来ませーん!そんな人の非難中傷に傷ついても仕方ないですよね~ヽ(・∀・)ノ
それよりは、自分と価値観の合う人と一緒に行動する。すると、すべての歯車が上手く回っていくようになります。
もしかすると、竜馬のように将来大物になっちゃうかもです~♪
おわりに
以上が、私の意見であり解釈です。あなたの意見&解釈があれば、ぜひ教えてくださいね~!!感想でも構いません!
コメント大募集!( ´ ▽ ` )ノ
龍馬の先祖と言われている明智光秀が詠んだ『心しらぬ人は何とも言はばいへ身をも惜まじ名をも惜まじ』とよく似てると言われているね。
素晴らしい情報ありがとうございますヽ(・∀・)ノ
確かに竜馬の祖先は明智光秀ではないかという説がありました。
それと、竜馬の名言とご指摘の光秀の句もそっくりです。
もしかすると、本当に関係があったのかもですね!