”いざとなれば損得を度外視できるその性根、世のなかに、それを持つ人間ほど怖い相手はない”
これは、敵方に日本一のサムライと言わしめた真田幸村の名言です。まさしく幸村の生き方そのものを表している言葉です。
この記事では、そんな真田幸村の人間像と功績、名言の意味を現代に照らし合わせて考えてみたいと思います。
真田幸村の名言
幸村の生き方は、後世の歴史ファンの心をも動かしています。今でも最後を遂げた安居神社には多くのファンが訪れています。
そんな真田幸村の名言がこちらです。
”いざとなれば損得を度外視できるその性根、世のなかに、それを持つ人間ほど怖い相手はない。”
まずは、真田幸村の人間性に触れてみましょう。
いやいや、私はすぐにでも意味を知りたいという方はこちらに進んで下さい。⇨ 真田幸村の名言の意味
戦国武将の名言に関する総集編のような記事を書きました。ぜひ、こちらもご覧下さい。

真田幸村とはどんな人
戦国時代最後に活躍した武将です。大阪冬の陣・夏の陣でその名を轟かせました。
1567年に真田昌幸の次男として甲府で生まれる。1615年大阪夏の陣にて戦死。正式名は真田信繁。幸村という名は後の歴史書にそう書かれていたから。
けっきょくは何をした人
真田幸村の功績
- 大阪冬の陣で、大阪城に真田丸を築き徳川軍を撃破
- 大阪夏の陣で、家康に自決を覚悟させるまで追い込む
豊臣家を守るため、自分の命を捧げました。結局、冬の陣で徳川に負けてしまいますが、その戦い方は歴史に残るものでした。
現在でも映画化されたり書籍になったりと、人気は衰えることを知りません。
真田幸村とはどんな人物
実は、戦国武将の中で有名だったのは父の昌幸です。昌幸はゲリラ戦が得意で、少数の兵で大軍をあしらう名人でした。
第一次上田合戦で少数で徳川軍を破り、第二次上田合戦でも煮え湯を飲ませた話はあまりにも有名です。
対し幸村は、1585年19歳の時に越後の上杉へ人質として出されます。
真田が元々使えていたのは武田家でしたが、その武田が信長に滅ぼされたためです。上杉に保護を求める代わりに、息子の幸村を人質に出したわけです。
しかし翌年、今度は豊臣側へ人質として出され大阪へ行くこととなりました。これは、豊臣秀吉の天下統一が目の前に迫ったからです。
その真田幸村が一躍その名を轟かせたのは、ご存知、大阪冬の陣・夏の陣です。
1614年48歳の時に、豊臣秀頼の呼びかけにより大阪城へと入城しました。この時に、大阪城の弱点となる平野口に真田丸を築き上げ、徳川軍をことごとく蹴散らしました。
真田丸とは出城のことで、徳川方の死者のうち8割は真田丸での攻防によるものとされています。
しかし、大阪城の堀を埋めることを条件に徳川と講話交渉が行われ、その時に真田丸も破却されることになりました。これで、籠城しての戦いが出来なくなりました。
翌年徳川家康は、さらに15万もの軍隊を集めて大阪城を攻めました。これが大阪夏の陣です。対する豊臣軍はわずか5万。1/3の兵力です。
そんな中、幸村率いる真田軍が家康の本陣めがけて突撃していったのです。
この大坂夏の陣ですが、前半は圧倒的不利な豊臣が優勢でしたが、後半になるにつれ徳川が盛り返していきました。やはり圧倒的な兵力差は埋められなかったようです。
幸村は、四天王寺ちかくの安居神社で傷を癒やしているところを、松平忠直の軍に発見され討ち取られることとなりました。
しかしこの戦いで、真田幸村の名は全国の武将の間で知られることとなったのです。
薩摩藩主である島津忠恒が、国許へ贈った手紙には幸村のことがこんな風に書いてありました。
五月七日に、御所様の御陣へ、真田左衛門仕かかり候て、御陣衆追いちらし、討ち捕り申し候。御陣衆、三里ほどずつ逃げ候衆は、皆みな生き残られ候。三度目に真田も討死にて候。真田日本一の兵、古よりの物語にもこれなき由。徳川方、半分敗北。惣別これのみ申す事に候。
意味はこうです。
5月7日の合戦で、徳川家康の本陣へ真田幸村が攻めかかり、徳川軍を追い散らして討ち取った。
徳川軍は3里ずつ逃げて無事だったが、その後真田は3度目の攻撃にて討ち死にする。
真田こそ日本一の兵(サムライ)である。昔から言い伝えや物語にも、これほどの武勇はない。徳川軍は半分敗北したも同然。
また、徳川方について戦った兄である真田信之も、こんなふうに語っています。
幸村こそ国を支配する本当の侍であり、彼に比べれば、我らは見かけを必死に繕い肩を怒らした道具持ち。それほどの差がある。
真田幸村の名言の意味とは?
”いざとなれば損得を度外視できるその性根、世のなかに、それを持つ人間ほど怖い相手はない”
意味はこうなります。
損得を無視してやり遂げる覚悟を持つ。それが出来る人間ほど、この世の中で怖い存在はない。
幸村が大阪城で豊臣方として戦ったときの気持ちが、そのまま表れていると言えるでしょう。
多くの武将は、その時その時で強い方(勝てる方)につきます。しかし、幸村はそうはしなかった。
冬の陣が終わったあとに、家康から勧誘もあったようです。徳川方に寝返ると、信濃10万石を与えると。それを断ると、今度は信濃一国(40万石)を与えると条件を上げてきました。
それでも、かたくなに幸村は断ったそうです。
この名言を自分に役立てるには?
生きていく上でお金はとても重要なので、中々損得勘定に左右されないというのは難しいです。
でも、それでも損得に左右されない自分をつくるんです。すると、何が起きるか。
信頼という2文字が、あなたについてきます。
考えてみるとわかりますが、損得で行動する人は信用できなかったりします。だって、いつでも裏切る覚悟があるからです。
お金を例に上げると、損得に左右される人の方程式はこうなります。
人間関係よりお金のほうが優先順位が上なので、平気で人を裏切ることが出来るんですね。私も裏切られた経験は何度もあります。
ではどうすればいいのか?
その人の言動を確認して下さい。普段から言ってることと行動がズレていたら、それは危険信号です。言動が一致していたら、その人は信用できると思っていいでしょう。
まとめ
今の世でも裏切り行為は横行してますから、戦国時代はもっと頻繁にあったことでしょう。
そんな中、損得に左右されない生き方というのは、ひじょうに貴重で尊敬できます。真田幸村は、まさしく信念の人であったと言えるでしょう。
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