戦国武将の名言を、時代の流れに沿って集めてみました。
一概に戦国武将の名言と言っても、それぞれ立場も違えば生きた時代も違ってきます。本当の意味で名言を理解しようと思うなら、時代背景も知らないとわからないのではないでしょうか。
この記事では、その背景を踏まえた上で書いてみました。
また、各名言にリンクをつけていて、それをクリックして読むことで、さらに深い意味がわかるようにしてあります。ぜひ、合わせて読んでみて下さい( ´ ▽ ` )ノ
戦国 “信長” 時代の名言集
この時代は、天才と呼ばれる武将が数名いた激動の時代です。しかし、途中で部下の裏切りにあったり病に倒れたりで、結局天下を取るまでいきませんでした。
そんな中、異質だったのが上杉謙信です。彼は他の武将のように野心に溢れてるわけではなく、義のために戦ったと言われます。
戦い方は神がかり的な強さで、それを表す言葉がこちらの名言です。
◯上杉玄信の名言
”運は天にあり、鎧は胸にあり、手柄は足にあり、何時も敵を我が掌中に入れて合戦すべし”

そんな謙信と、川中島で名勝負を繰り広げたのが武田信玄でした。武田信玄というと孫氏の兵法の使い手をしても有名です。
戦も内政も信長より上だったと言われ、実際に信長のいる三河に進軍中に病に倒れました。信玄の考え方は、この名言の中にすべて収まっています。
◯武田信玄の名言
”人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、仇は敵なり”

戦国の乱世に、統一まであと少しまでいったのが織田信長です。かなり優秀な才能を持っていて、自分より大きな大名を片っ端からなぎ倒していきました。
しかし、性格的に非道な面も持っていたため、反逆とか裏切りにも数多くあっています。有能な人材を見出す天才でもありました。
◯織田信長の名言
”言われたことしかやらないのは雑兵だ”

信長の家臣として、秀吉より早く出世街道を登った男がいました。彼の名は、明智光秀。しかし、最終的には信長に対して、謀反を起こしてしまいます。
しかし、領主としては非常に優秀で、領民からひじょうに慕われていたことが、この名言からわかります。
◯明智光秀の名言
”たとえ天下を取ったとしても、妾は持たぬ”

戦国 “秀吉” 時代の名言集
信長が本能寺で倒れると、時代が大きく動きます。信長によって見出されたもう一つの才人、豊臣秀吉が信長の意思を継ぎ天下統一を果たします。
秀吉には信長にない才能がありました。それを言い表す言葉がこちらです。
◯豊臣秀吉の名言
”敵の逃げ道を作っておいてから攻めよ”

秀吉は天下を統一できたのは、もちろん自分ひとりだけの力ではありません。陰に天才と言われた軍師たちの協力がありました。
そのうちの一人が竹中半兵衛です。半兵衛は若くして病死してしまいますが、その功績は現代でも語り継がれています。
半兵衛がどんな心構えを持っていたかは、この名言から知ることが出来ます。
◯竹中半兵衛の名言
“身分不相応な値の高い馬は買い求めるべきではない。よき馬ゆえにかえって名を失うことになる。”

半兵衛と一緒に秀吉を支えたのが、もうひとりの天才軍師黒田官兵衛でした。
半兵衛が若くして死したため、正確には二人の時代にはズレがあるわけですが、秀吉の参謀としてさまざまな戦で知略を提案しています。
戦というと血で血を争うイメージがありますが、官兵衛は戦わずして勝つ天才でした。そんな官兵衛が自分の息子に託した言葉があります。それが、この名言です。
◯黒田官兵衛の名言
”最期の勝ちを得るにはどうしたらいいかを考えよ”

片や四国では、こんな風雲児が力を大きくしていました。土佐の小大名から四国を統一したのが長宗我部元親です。
彼の取った戦略はひじょうに優れていて、少ない兵力で効率よく勝ち進んでいきました。けっきょくは作戦を黒田官兵衛に見抜かれ秀吉に屈してしまいますが、その戦略は現代でも通用するものです。
それを言い表しているのがこちらの名言です。
◯長宗我部元親の名言
”一芸に熟達せよ 多芸を欲張るものは巧みならず”

秀吉が天下統一を果たした時、常に右にはこの男がいました。その男の名は前田利家。秀吉を語る上では外せない男です。
槍の又左と言われ、その武功は凄まじいものがありました。が、政治戦略という意味では大した功績を残していません。
しかし、加賀百万石を所有した大大名にまでなりました。その利家が秀吉から感じた恩義を言葉で表したのが、こちらの名言です。
◯前田利家の名言
”人間は不遇になった時、初めて友情のなんたるかを知るものだ”

秀吉が亡くなると、再び勢力争いが起きました。豊臣家に変わって、徳川家康が勢力を伸ばしてきたからです。
通常なら勝つ方に付いたりするわけですが、それでも秀吉に恩義を感じていた石田三成は、最後の最後まで豊臣家として戦い抜きました。
その三成が残した最後の言葉がこちらです。三成も義に生きた人だということがわかります。
◯石田三成の名言
”命を惜しむは、ひとえに我が志を達せんと思うがゆえなり”

豊臣の最後に命を差し出したのは、石田三成だけではありません。大阪冬の陣で徳川軍を撃破し、夏の陣で、家康を自決寸前まで追い詰めた真田幸村もいます。
幸村はその戦いっぷりから、敵方から幸村こそ日本一のサムライであると言わしめました。その幸村の覚悟が、この一言に表れています。
◯真田幸村の名言
”いざとなれば損得を度外視できるその性根、世のなかに、それを持つ人間ほど怖い相手はない”

戦国 “家康” 時代の名言集
あまり人気のない徳川家康ですが、ほんとうの意味で日本に戦のない時代を築いたのは、この徳川家康です。
家康は信長や秀吉と違い、子供の頃からかなり苦労しています。だからこそ、最後の最後に天下を取り、平和な時代を築くことが出いました。
そんな家康が残した言葉がこちらです。他の武将とは明らかに違います。現代に生きる私たちには、こちらの言葉のほうが大事なのではないでしょうか。
◯徳川家康の名言
”人の一生は重荷を負て遠き道をゆくがごとし”

東北地方に、遅れてきた戦国武将として頭角を現してきた人物がいます。それが伊達政宗です。
政宗があと10年早く生まれていれば、天下統一を狙えたとも言われています。しかし、政宗は時代の流れに逆らうことはせず、徳川幕府に従っています。
特に晩年の政宗は、料理に情熱を注いでいます。そして政宗が出した結論が、こちらです。
◯伊達政宗の名言
”朝夕の食事はうまからずともほめて食うべし”

おわりに
こうしてみると、時代によって発している名言に違いがあることが、本当によくわかりますよね。
お読み頂き、ありがとうございましたm(_ _)m
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