人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、仇は敵なり。
これは、戦国時代の名将である武田信玄の名言です。
この記事では、武田信玄の功績・人物像からどんな人なのかを割り出し、名言の本当の意味に焦点を当てて解説していきます。
武田信玄の名言
武田信玄がもう少し長生きできていれば、歴史は変わっていたかも知れないと言わしめるほどの人物です。
そんな武田信玄の名言がこちらです。
”人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、仇は敵なり”
まずは、武田信玄の人間性に触れてみましょう。
いやいや、私はすぐにでも意味を知りたいという方はこちらに進んで下さい。⇨ 武田信玄の名言の意味
戦国武将の名言に関する総集編のような記事を書きました。ぜひ、こちらもご覧下さい。

武田信玄とはどんな人
戦国時代を生きた名武将です。武将の中でも最強と言われています。
1521年に甲斐(山梨県)の守護大名である武田信虎の子として生まれる。1573年、53歳にて病死。
けっきょく何をした人
甲斐の領土を拡大した人です。
上杉謙信との川中島の戦いはあまりにも有名で、戦も内政も信長より優秀だったと言われることが多いです。
武田信玄の功績
- 父信虎を甲斐から追い出す
- 温泉の発掘
- 信玄堤を築く(洪水防止の堤防)
- 甲州枡・大小切税法を採用
- 金山の発掘
- 甲斐の領土拡大
- 武田神社の御祭神として祀られている
甲斐の甲府盆地は、その形状から河川が反乱しやすかったのですが、それを信玄堤で解決しました。
信玄堤(しんげんつつみ)とは、要は堤防のことです。
洪水を防ぐことで、安定的に農作物が栽培できるようになりました。
武田信玄とはどんな人物?
武田信玄は、とにかく人を大切にしました。これは上記の政策からもわかるし、言動からもそれが伺えます。
また、孫氏の兵法の使い手としても有名です。信玄の代名詞になっている「風林火山」は、孫氏の兵法書に出てくる「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」の略語です。
そんな信玄ですが、16歳で元服すると、21歳の時には父信虎を駿河へと追放します。信虎は家臣にも領民にも評判が悪かったのです。そして、武田家19代当主となります。
新当主 武田信玄は、富国強兵策を実施しました。金山開発をすすめ、それを軍資金に約9000騎にもなる武田騎馬軍団を結成。
1553年、33歳になった頃には信濃をほぼ平定し、越後の虎と言われた上杉謙信と数度に渡る戦いを繰り広げました。
さらに1572年には、徳川織田の連合軍を撃破。信玄の圧勝だったようです。家康は命からがら逃げ帰ったと記されているくらいです。
しかし、そんな武田信玄も、翌年、三河に進軍中に病に倒れてしまいました。
どんだけ強いねんって感じですが、信玄の偉いところは、決して自国内を戦場にしなかったことです。武田神社の御祭神として祀られるのもわかる気がします。
信玄の名言の意味とは?
”人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、仇は敵なり”
人の力がないと、城があっても役に立たない。信頼できる人の集まりは、強固な城に匹敵する。
人は情けをかけると味方になり、仕返しになるような行動をすると、いざという時に誰も助けてくれなかったり恨まれたりする。
人材こそが城であり、石垣であり、堀である。
…という意味です。
何とも素晴らしい言葉ですね!家康がもっとも尊敬したのが武田信玄だといいますから、それだけ当時から徳を持ってた人物であることは確かなようです。
この名言を自分に役立てるには?
人を大切にすると言うことは、グループで何かをする時に役に立ちますよね。
結局は個人の力なんてたかが知れてるので、みんなの力で何とかしようということです。
そのためには、各個人との人間関係を大切にする。ただし、誰でもいいというわけではありません。
国民もそんな民主党に、まったく期待しなくなりましたし。
ですから、基本は信玄公の言うとおり信頼できる人同士の集合体がベストです。同じ価値観を共有できて、仲間を大切にし合うことで初めて一つの方向に進めることができます。
自分のビジネスでもいいですし、私生活に関してでもいいと思いますよ。今までの2倍3倍のスピードで事が進むと思います。
最初は小さなグループでいいので、そこから少しずつ仲間を増やしていくとスムーズにいくと思います。
ちなみに、相手と信頼関係を築くには、相手のニーズに注目することです。先に、相手のニーズを満たしてあげる。すると、その好意が自分にも返ってきます。
逆に個人の利益を追求しすぎると、失敗するでしょう。
終わりに
武田信玄は、物事を学ぶ力にひじょうに長けてたと思われます。それが、たまたま孫氏の兵法だったのでしょうね!
それと、学んだことを実践して人を束ねる力。工夫する力。見事です。
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