”敵の逃げ道を作っておいてから攻めよ”
これは戦国時代の武将である豊臣秀吉の名言です。秀吉というと、身分の低い足軽から最上位である太閤まで上り詰めた人物として有名です。
この記事では、そんな秀吉の名言の意味と、功績・人間性まで深掘りして解説していきます。
豊臣秀吉の名言
豊臣秀吉も名言がたくさん残されています。しかし、この記事では、おそらくこれが信長より優れていたであろうと言われる考え方を、言葉で表しています。
その名言がこちらです。
”敵の逃げ道を作っておいてから攻めよ”
まずは、豊臣秀吉の人間性に触れてみましょう。
いやいや、私はすぐにでも意味を知りたいという方はこちらに進んで下さい。⇨ 秀吉の名言の意味
戦国武将の名言に関する総集編のような記事を書きました。ぜひ、こちらもご覧下さい。

豊臣秀吉とはどんな人?
豊臣秀吉は戦国時代の武将です。主君である織田信長の後をついで、天下統一を果たしました。
1537年、尾張にて織田信長の足軽木下弥右衛門のことして生まれ、1598年に死去しています。死因ははっきりしませんが、病気だと言われています。
けっきょく何をした人
豊臣秀吉の功績
- 戦乱の世をまとめ天下統一をした
- 織田信長の敵をとった
- 大阪城を建てた
- 刀狩り(農民一揆の予防策)
- 太閤検地(年貢徴収法)
- 惣無事令(死戦禁止令)
- 朝鮮出兵
- 将棋の王将を作った
刀狩り・太閤検地は統一後に、農民が逃げたり反乱を起こさないための政策です。信長の時代に百姓一揆が多かったからです。
また、秀吉は天下統一後に、朝鮮出兵を行いました。これはアジアの大国明を征服するためです。日本では、文禄・慶長の役と言われます。戦いは朝鮮全土へと広がりますが、明からの援軍が合流したりで、けっきょくは秀吉の死を機に撤退しました。
さらに、秀吉は将棋界にも影響を与えています。将棋はもともと中国から日本に伝わってきたゲームです。だから、当時は「金・銀・玉」でした。この場合の「玉」は宝を表します。要は宝を奪い合うゲームなわけです。
しかし秀吉は、2つある玉のうち1つを「王」に変えてしまいました。これは、秀吉が戦いを重視したからです。それ以来、対局するときには上位者が「王」の駒を、下位者が「玉」の駒を使うようになりました。
豊臣秀吉はどんな人物?
秀吉は生まれついての戦略家で、観察力に優れています。そして、人への取り入れ方がとても上手です。
だから、信長に気に入られたのです。信長の名言から、この2人はとても相性が良かったことがわかります。

有名な逸話としても、草履取りだった秀吉が、信長の草履を自分の懐で温め大変気に入られるという話があります。
これも秀吉の観察力と人への取り入れ方の上手さです。
そして、秀吉は自分の強みを存分に活かすことで、足軽から最高位である太政大臣にまで上り詰めています。
それに合わせて性も改正しました。まるで出世魚のようです、
- 1554年17歳の時に織田家に士官
- 25歳の時には足軽百姓組の頭になる
- 1573年36歳の時に羽柴秀吉に改名
- 翌年に近江長浜城の城主になる
- 1583年賤ヶ岳の戦いで信長の後継者となる
- 翌々年48歳の時に「藤原秀吉」と改名し関白宣下
- 49歳の時に「豊臣秀吉」に改姓し、太政大臣になる
- 1590年53歳の時に北条氏を破り天下統一
しかし秀吉は、やり過ぎは裏切りに合うと考えていたようです。やがてそれは、本能寺の変で確信に変わります。
秀吉の名言の意味とは?
”敵の逃げ道を作っておいてから攻めよ”
逃げ道を完全に塞ぐと敵は降参しなくなるばかりか、猛烈に反撃してくる。だから、攻める前に逃げ道を一つだけ作っておけという意味です。
秀吉はこの言葉をよく熟知していて、信長のかたきを討つために明智軍と戦った時に、実際に戦略として使いました。
四方から明智軍を包囲し、追い詰めた後にわざと包囲の一部を解除しました。すると、明智軍はどうしようもなくなりそこへ逃げ込みます。
この時の明智軍は、すでに繊維を喪失していたと言われます。あっという間に消滅してしまいました。さすが戦略家の秀吉と言いたいところですが、その影に参謀である黒田官兵衛の知恵もあったようです。
この名言を自分に役立てるには?
私達が住んでいる現代社会でも、戦わないといけない時は必ずあります。自分にはその気がなくても、売られて避けられない場合だってあるんです。
これを徹底的にやってしまうと、信長のように恨まれます。結果、いつか復習されるんです。
特に女性は受けた恨みはけっして忘れません。熟年離婚されないように気をつけて下さいね~(笑)。
これは中国の有名な戦略家である孫氏も、同じことを言っています。「敗者を追い詰めるな」と。
逆に、誰かがとことん叩きのめされていたら、秀吉のように助け舟を出してあげると感謝されますよ。どうせなら、こちら側に回りましょう。
おわりに
織田信長が天才だとすると、豊臣秀吉は群を抜く戦略家です。片や女好きとしても有名でしたが、そんな秀吉だからこそこのような名言が生まれたのでしょう。
恐怖を植え付けた信長とは対象的に、秀吉は人たらしです。
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